昭和46年08月16日 朝の御理解
御理解 第67節
「何事もくぎづけではない。信心をめいめいにしておらねば長う続かぬ。」
各自にしておかねば長う続かぬ。信心を少し分って参りますと、家内の信心がみたらんように思うたり、主人の信心があげな事じゃいかんと思うたりするようになるもんです。例えば、私と皆さんでも同じ事おかげ頂きたい、おかげ頂きたいというなら、そげな事でいくもんかいと思う事がある。おかげ頂きたいならこうと、けどもその辺のところが結局求めて来るならいざ知らず、相談して来るならいざ知らずですけれども。
そうでないならこれは各自のものですから、もうそれは、各自のところで私は信心は進めていくべきだと、けっして釘づけではない。もうそれは驚くばかりですね。釘づけではない、本当にあんな人といえばなんですけれども、本当に目立たない人、この人が信心がわかるもんじゃろかという人がですね、一年,二年,三年と続けていく中にですね、それはまあ驚くばかりの心境を開いていく人がありますね。
私は先日、十三日会の時に最後のの千代田さんの発表を聞いた時、素晴らしいなあと思うたんですね。確かに目立った存在じゃないです、御用されるでも、いっちゃない、誰も知らん、門の中に入ってから一生懸命草を取りござったり、知らぬ間にお便所のお掃除をしござったり、おじいちゃん、おばあちゃんのあちらの部屋の後ろからお参り、昼頃来なさるですね。そしてから時間があると、御用なさったり、仲々実意丁寧の信心を続けておられますが、成程、こういう心の状態を開けて来るはずだと思いました。
もう何とはなしに有難うてという言葉を何回も使われますね。私は信心とはそれだと思うです。これがこうしたから有難うなるのじゃないです。もう本当に頭の下がる思いが致します。何とはなしに有難うなるというですからね。かというて、この人はよか信心が出来るじゃろう、仲々理解力もあるし、仲々あか抜けした御用も出来なさるしと思う人がね、あっという間に、それこそ消えてなくなるように信心を止めていく人があります。確かに何事も釘づけではありません。
ですからその感じ方というか見方というか、それを私共は各自しておらねば永う続かんと、折角信心を頂きに来たのなら、私の信心を本当に少し姿勢を正して頂けばよいのにと思うような事がありますけれども、それとて、言うて聞かせてわからせようとしたとて、それは駄目である。本人が求めて来ればいざしらず、家庭の上においても同じことが言えると思う。私はいつも自分の家族のこと、とりわけ子供の事がいま学院から沢山帰って来とりますから。
手がいうならばありすぎる位あるもんですから、子供達がついそれに甘えるんですね。勤めなければならんところを勤めない。御広前のお掃除なんかは栄四郎達が受け持ってやっておりましたのが、皆やってるものですから、テレビを見とると言った様な事であります。だからそういう、親として目に余る事がございますから、お前はそう言う事でどうするかというたところで、その時は聞いたとてそれが本当の事になっていかない。そんな事を神様にお詫びさせて頂きよりましたらね。
御承知でしょうが、ここの勝手に昔からあるのですけれども、おしぼり受けのね、竹で作った見事なおしぼり受けがあるのです。裏をこう黒の漆で塗ってね上等なもの、それを頂くのですよ。ですから私はすぐ直感した事は、子供じゃない自分がしぼっていったらよいのだと言う事。熱いのでも、冷たいのでもよい。自分で自分が、自分自身が子供達の事をそういうふうに目に余るような感じがした時には、親の方がしぼっていったらよい。親の方が手元のところを、もちっとしっかりしていったらよい。
そのおかげを頂いたらここのところの子供ば見て見ろと、もういつの場合でも、どんな時でもその時には御用に立たねばならん時には、ちゃんとそのおしぼりの台にみんななりよろうが、まあ頂いてみて成程そうです。若先生どんが場合でも、光昭達の場合でも幹三郎の場合でも直子達の場合でも、これは一人々の上に、その時にはその人じゃなからねばならんという時には、もう見事に日頃私がしぼっておるそれを、それを台にして受けて仕えるおかげを受けておるという事実をね。
私は感じさせて頂いてね、成程そうだなあと思うのですね、皆さんそう思われませんか。もうそれはいうならば、親が願うとか、親が思うとかそれ以上の御用をその時に、必要な時に神様がさせて下さってある。これがどうでしょう、私の生き方を同じ兄弟でも各々性格が違います。赤もおれば白もおる、青もおるというのですから、私が赤だからというて子供達みんな赤になれといったところでそれは無理な話です。いわゆるそれから先がですね、もう、神様のおかげを下さる世界です。
だから私自身がしぼっておればよいわけです。しぼっておると言う事は、自分自身を見極める、いうなら身を削り、心を削りという事になりましょう。一生懸命精進をする事になりましょう。自分が一生懸命精進しとると、もう家内がみたらんように思う。子供達がそれではたらんように思うたり、私信心の世界というのはね、そこを体得しなければ本当のおかげを受けられんと思うです。
それから先のおかげは大した事ですから。今朝御祈念中に、なべおさむという妙な顔をしたタレントとがおりましょうが、おさむというのはどうかいてあるか知りませんが、頂いたのはなべおさむ、だから私は、なべという字は鍋釜の鍋とこう頂いた。おさむという字はさんずいにむくちという治を感じてそして、今日六十七節を頂いてから、ははぁここんところを各自、信心をめいめいしておらねば永う続かんということ。
いわゆる昨日、私が子供達の事で、おしぼり入れを頂いて、成程ここんところで注意する事もいう事もいらんな、というてそれを放任しとくのじゃない、自身をしぼっていけばよい。成程、そういえば、家の子供達一人一人、その時、その時にその場に応じてとてもそれでなければ出来まいと、例えば、勝彦の御用は光昭では出来ません。けれども、なら、光昭の受け持っておる分担のところを勝彦にさせろというてたって、もう「あぶね」ことではありません。それは足元にもよりません。
ですからもう、その場は、神様はもう本当に思いもかけない働きをもってね、神様が見事にお使いまわし下さるのですから、親がどうこう言う事じゃない。これはお互い人間関係の上に於いて、ここのところのおかげを頂くという事が、私は信心を本当に頂いておる者の、心の状態、心の使い方だと思います。今日、なべおさむという事は、まあ鍋というものは、副食を煮る為のものですね おつゆとかお煮しめなんかを作るものでしょう。けどまあここでは、鍋釜と頂かにゃいかんと思います。
鍋釜、いうなら、私共が本当の意味に於いてままになるおかげ ままになるおかげ。本当の意味に於いての私はままになるおかげを頂くという事。これは信心がです、例えば今私が申します、成程、例えば信心は家庭に不和のなきが元とこうおっしゃる。その家庭が不和がない。これは信心がなくても大変円満な家庭があります。その円満であるというだけでもやはり有難いですけれども、円満ではなくて、例えば家の中が信心しとっても、夫婦が親子が何とはなしにこう。
まあ冷戦とでもいいますか、こっとりともいわんけれども、何とはなしに、心で責め合うておるというか、そういうような場合、これはもう、家庭に不和のなきが元なりという事にはなりませんね、信心では。けれども、信心を抜きだとあっちはもう、こっとりともいわんとこう言います。けれども信心ではそうじゃない。もう心が争っておるなら闘っておるなら、もうそれは、むしろ形の上で争って、後はさっぱりとした方がどの位よいかわからん。おかげは心にあるのですから。
信心は家庭に不和のなきが元とおっしゃるのは、そういう事。だからそう言う様な不和のない元を作らせて頂く為に、いわゆるなべおさむ【 】で、今日私が申します私自身がしぼっていくという気になる事なのである。そこに治まっていくというおかげにはね、これはもう、それこそ夢にも思わないようなおかげがこれなら頂けるのです。ここが素晴らしいところ。信心で治まっていくと言う事は、いうならば。
いわんで治まる、いわんでじゃない自分自身がしぼって、神様に詫びたり願ったりという生き方、先には神様が治めて下さるだけではない。その治まったという事がです、家庭に不和のなきが元、その元が出来るのです。元という事は、おかげのもとと言う事なのです。成程、なべおさむ、さあ、そこんところをです、いわゆる信心は各自がめいめいにしておらねばならん事がわかりましょう。
感じ方も見方も、信心の度合いも程度も違うのですから。これは私が御信者さん方を見る目もそうでなくてはならない。そして私が体験していうなら、先程から申します、ああ、この人は仲々理解力もある、熱心に御理解も頂きなさる、しかもさっぱりすきっとした御用も出来る。弁も立つ、こげな人がよか信心になるじゃろうと思いよるとそげな人にかぎって、いよいよ信心が続かんですね。これは不思議です。
久保山先生がよく椛目時代言いよんなさいました。先生今日参った来た信者さんはよか信者さんですばい。先生あんたがそげん言いなさったとは絶対よか信者さんにならんもんのと言いよりました。人間の見た目じゃわからん。かというて、目立たない存在、わかるじゃらわからんとやらわからんごとある状態の人がです、もう信心の一番素晴らしいところを頂いていきよる。
千代田さんの場合がそうですね、何とはなしにわけはわからんけれども有難いというものが自分で実感しよんなさる、驚くばかり。これをあの人は仲々熱心じゃからとひっつかまえといて、特別御理解でもする、特別教導でもするというような事を致しますとね、おかげ頂きませんですね。本人がね、求めて来るならいざしらずです。尋ねて来るなら私の考えをいうけど、一番失敗したと今思います事は、古賀先生の事ですね。
この人は折角の教師の資格も取らせて頂いて、体が弱いばっかりにお道の教師としてお取立を頂けない。まあ当時椛目で親子連れで縋ってやって参りましたから、この人は他の指導では出来んと思いましたね。だからこの人でなければ出来んという修行を私が思うて、あんたは他の修行生のようなわけにはいかん。力もなからなければ体も弱い。だから私がいう、ここんところを受け持ってしっかり信心していけ。
それを修行と思えというて、まあ随分そこのところの教導をしましたけれども、いうた時だけはしよるけれども、もういうたものですから付け焼刃のようで外れますよね。そして二年間も修行しとる内に、ならおかげ頂いたかのように見えましたけれども、例えば結果としては取次者としての御用を全うし得ずして、この世を去らなければならないという結果になった。
私があの時少し自由奔走に、それこそ信心は各自だから、もうこの人が一年ばかりは高橋正雄先生に、まあ傾倒しておりましたからね、私が言う事を一々反発するのです。それこそ私の方が理屈は負くるです。仲々その頭がよいですから、それをこっちは、もやもやするけんで、あんたがそげな事いうてからというて、やかましゅう言いながら教える。そして、まあ一年目位からはやはり、合楽ふうというかね。
おかげ頂いて健康の上にもおかげ頂いて、けどもあれを私がもちっと、大きな心で、昨日頂いたように、子供達の事の上に私が願いをかけた時に、私がしぼればよいのだ、修行生じゃない、子供じゃない、私がしぼっていけばその修行生一人一人が、必ずその、おしぼり台になってくれるのだ、なるのだ 私はそこんところ各自にでなくて、自分一色にしょうと古賀先生をした。私流儀にしてしまおうとしたところに本当におかげの受けられないとこに気づかせて頂いて、相すまぬ事だったと思います。
何事も釘づけではない。ここんところを今日は私は、もう神様がいよいよ育てて下さろうというか、使うて下さろうと言う事になればです、それは素晴らしい神様の、いわゆる、神様のお手にかかったら、どんなものでもです、立派にお育て頂く事が出来ると言う事、いわゆる、私共が本当の意味に於いてです、鍋釜、いわゆる、御飯もあればお菜もある、ままになるおかげ。ままになるおかげは本当の意味に於いての、ままになるおかげ、これは神様が下さろうとするおかげというた方がよいでしょう。
神様が下さろうとするおかげを頂いていく為には、いわゆる、おさむである。どうぞひとつ、その成り行きを大事にさせて頂きながら、それをいわずにだけではない、それは目に余るようなものをもし感ずるなら、私自身がしぼっていくという生き方になりゃ、神様がそのおしぼりのおしぼり受け台、そのおしぼり台にはその神様が使うて下さるという事になります。まず釘づけでないという事は、どういうふうに変わるかわからない。それを自分で替えようとしたり、自分の固定した考え方。
それは本当の事であっても、自分のまあ、思い込んでおる事を、それを人に強制したりする事は、それこそ人を釘づけにしてしまうようになる。物事を釘づけにしてしまうような事になる。進展がない。そこで信心を各自にしとらなけれはならない。度合いが違う。信心の程度が違う。ですから自分の程度のところまで引き上げようと思うたりする事、一昨日でしたかね、久留米の佐田さんが最近心の中に湧いてくる。
素晴らしい事を思う、だからこの素晴らしい事を主人にでも、親にでも、子供にも発表したい。私はお父さんこげん有難い事を思いよる。もう衝動にかられるくらい素晴らしい事を思う。成程、話を聞けば素晴らしい事。けれども信心の程度が違うからね、言うちゃならんよと私が申しました。お前はどげん思うかと、もし主人が尋ねたら、私は最近こげん思いますというてよかろう。
けれども私はこげな素晴らしい事は思いよるけん主人も一緒にしよう。親も子供も同じような思いをさせようと思うような事ではかえって、そこのところを釘づけにしてしまうような、自分自身がだから有難う思うておれば、それでよいと言う事である いわゆる各自にしておらねばという事。確かに永う続かんです。問題は永う続いておる中に、どんなに古賀先生を私の思うようにしたというても、さあ飯塚に帰ったらもう、飯塚ふうになっているでしょう。
だから私があの時、もう一年間というたけれども、それを降り切るようにしてあちらに参りましたからといえば、それきりですけれども、私があそこのところを私の思うようにした、いうなら合楽流というものを型の中に入れるようにして、作り上げたような感じがする。けどそれはどこまでも、私が作ったのだから、私が教えたのだから、永う続かなかったでしょう。
今はどんなにぼんくらでもええ、今はどんなに牛の歩みのように遅々としとってもよい。いわゆるじっと永い目で親心をもって、眺めさせて頂いて、あああげな事ではいけんがなと思う時には、自分自身がしぼっておかげを頂いていく。自分が手元の所をしっかりおかげを頂いていけば、いつかはおかげを頂く。しかもそのおかげというのは、とても私が想像もし得なかった程しの、たとえば信心であるならば信心が進んでおる。もうおかげであるならば想像もし得なかったおかげに展開してくるという事実をね。
私共が日々に体験させて頂いて、いよいよの時にここんところをいわんですむ。いわゆる各自の信心のところを、本気でさせて頂くおかげを頂かなければ、そうでないと信心の何と申しますか、信心の頼んで頂いたおかげといったようなものではなくて、もう、夢にも思わなかったようなおかげにです、いうならば、なべおさむ、であるのおかげを頂く為に、そこんところの信心修行、又は修養していかねばならんと思いますね。
どうぞ。